MENU

  • お問い合わせ
  • アクセス

特選

  1. ホーム
  2. 特選
  3. 塩尻ワインヒストリー~130年の歴史~

塩尻ワインヒストリー
~130年の歴史~

塩尻市の「桔梗ヶ原」と言えば、ワインの銘醸地として、世界のワイン愛好家に知られております。そのきっかけは、今から約30年前の1989年(平成元年)、スロベニアで開催された世界的に権威のある「リュブリアーナ国際ワインコンクール」にて、『シャトー・メルシャン信州桔梗ヶ原メルロー1985』が大金賞を受賞し、更に、『1986』も、二年連続で大金賞を受賞したことに始まります。

長野県初のワインの誕生

長野県初のワインの誕生

現在から約130年前の1890年(明治23年)、塩尻の地で初めてブドウ栽培が始まりました。その7年後、1897年(明治30年)には、ワイン醸造が始まります。
その立役者となったのは、豊島理喜治(とよしまりきじ)です。理喜治は、ほとんど原野だった1ヘクタールの土地に、コンコード、ジンファンデル・ハートフォード、ナイヤガラなど26品種、約3000本の苗を植え、さらに、ワイン造りのための会社を設立し、ワイン醸造を始めました。

林五一 川上善兵衛の活躍

林五一
川上善兵衛の活躍

理喜治のブドウ栽培開始から21年後の1911年(明治44年)、「林五一(はやしごいち)」(林農園(五一わいん)創業者)もまた、桔梗ヶ原でブドウ栽培を開始しました。その更に8年後、1919年(大正8年)に、五一がワイン造りを決心します。このとき、五一に大きな影響を与えたのが、後に「日本ワインの父」と呼ばれた「川上善兵衛(かわかみぜんべえ)」です。善兵衛は、理喜治が桔梗ヶ原でのブドウ栽培を始めた際にも、栽培指導に携わっています。

塩尻ワインの拡大

塩尻ワインの拡大

当初の桔梗ヶ原のブドウは生食用のコンコードが主流でしたが、徐々に需要が減っていきました。地元にはいくつかの醸造所が創業されましたが、桔梗ヶ原のブドウを受け入れるには規模が小さすぎました。そんな中、五一と共に奔走していた一人、塩原武雄(信濃ワイン)は、大手醸造会社の寿屋(現サントリー)社長の鳥井信治郎に、ブドウの取引について直談判しました。これをきっかけに、桔梗ヶ原に大手醸造会社の工場が誘致されることになりました。1936年(昭和11年)に寿屋、その2年後には、大黒葡萄酒(現シャトー・メルシャン)の工場が建設され、桔梗ヶ原のブドウは、ワインとなって全国の食卓に並んだのです。

桔梗ヶ原のメルローの第1号の古木

後に大きな転機となる
メルロー栽培

1952年(昭和27年)、五一とその息子幹雄は、メルローに出会います。二人は山形県よりメルローの枝を持ち帰り、自園に植えました。これが、桔梗ヶ原のメルローの第1号です。その古木が1本、今も桔梗ヶ原にある林農園の畑に生き続けています。

コンコードからメルロー栽培へ

コンコードからメルロー栽培へ

1964年(昭和39年)、東京オリンピックを契機に、人々の好みが人工甘味ワインから本格ワインへ移り変わりました。それまで桔梗ヶ原で主流であったコンコードは行き場を失い、ブドウ農家に危機が訪れました。
1976年(昭和51年)1月、大黒葡萄酒の工場長だった浅井昭吾(麻井宇介)は、大黒葡萄酒出荷組合の農家約100人を前に、メルロー栽培への転換を呼びかけました。その時に助言したのが、当時既にメルロー栽培に着手していた林幹雄です。その呼びかけに約60人が賛同し、桔梗ヶ原でのメルロー栽培が本格的にスタートしました。
その一大転機から9年後、手探りで始まったメルロー栽培は、『シャトー・メルシャン信州桔梗ヶ原メルロー1985』のワインが生まれるまでになりました。

塩尻ワイン

130年の歴史を経て
今も親しまれる塩尻ワイン

長年にわたるブドウ栽培農家や醸造家の苦悩や絶え間ぬ努力を経て、桔梗ヶ原、塩尻のワインは受け継がれています。現在は、桔梗ヶ原ワインバレーとして、新ワイナリーの誕生や、新たな栽培地の開拓など、更に新たな時代へと展開しています。そんな塩尻のワイン、塩尻のまちをより多くの方に楽しんでいただくため、ワインイベント「塩尻ワイナリーフェスタ」の開催やワイナリー循環バス運行などの試みも続けています。

 

参考文献:いぶき彰吾(2017)『ワイン物語-桔梗ヶ原にかけた夢』塩尻市教育委員会
麻井宇介(2001)『ワインづくりの思想』 中央公論新社